昭和40年06月11日 朝の御理解



 信心の稽古についての御理解。

 学生には学生の、本分が信心を稽古さしてもらう、信奉者には信奉者の本分というものが、あるはずである。学者の学者への本分が、どこまでも学問を身に付けるということが、そのう本分である。勉強するということが学者への本分であるように、信心もまたおんなしこと。学校には通てるけれど勉強はしない、試験のある時だけ、チョロチョロと勉強すると言うのは、これは、学生へは学生としてのその、本分をいうなら、まっとうしてない訳である。
 信心さして頂く、いわゆる信心の稽古をさして頂くという、やっぱほどしの人ならばいよいよ、その事その問題を通して、信心の体験を頂いていかなければならん。いうならば、忙しければ忙しい暇であれば暇、ね、で信心の稽古をなされていかなければならん。でなかったら、暇な時だけ一生懸命参りゃあ、なら又例えば商売が暇だからと言うて、一生懸命お願いをすれば、なる程またおかげを頂けるもんだ。
 という体験は生まれても、忙しければ忙しいで、忙しゅうございましたから御無礼致しました。というような事では、忙しい時の信心が分からんでしょう。例えば、忙しい時でもです。ね。神様第一主義、第一義を以ってです。信心の稽古をさせて頂けば、ね、これは忙しい時は、忙しい時でなかなければ、分からない信心の体験を頂く事が出来て始めて、信心の稽古をしておるということが言えるのじゃなかろうか。ね。
 それは、家庭においても、教祖の神様のみ教えの中にも、ね、『家に病人があったり、何か事があったりすると、なかなかお参りが出来んから、常日頃に信心の稽古をしておけ』と、そういうふうに教えておられる。いわば場合もある。これがあたしはだから、信心の程度だと思う、ね、常日頃に信心の稽古をさして頂いた。忙しい時には、まあお参りなんか、お参りせんでも、まあ良いと言うのである。
 私お参りそのものが、ここには信心の稽古に来る所、と仰る。ここには信心の稽古場とこう仰る。その稽古場に通うて、その稽古場での習うた事を基にして、忙しい事暇な時、その中を通して、信心を体得さして頂くであって、ね、一切の事の中から信心を体得していく事が出来るでしょう。ね。次に、まあ四神様のみ教えの中にあるように、『神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる』と仰るような、おかげが生まれて来る。ま、
 ここはいうならもう徳の世界、力の世界と言った様な感じですよね。どうでしょうかね。氏子が神の用を足せば、いわば信心を本意でいけば、神様本意でいけばということである。『氏子の用は神が足してやる』と仰るような、おかげを頂かしてもらうのである。そこが稽古である。そこんところを稽古し抜くのである。あああのことですか。そんなら今日取り上げの、忙しい事の真っ最中ですけれどもお参りさして頂こう。
 そしたら家じゃ加勢人がこうあっとった。そんなに言うなものではない、ね、ただもう、神様にちゃんとその御祈念して、もう内の中でどんどん取り入れが出来ておった。ね。なら、そういうおかげも頂かれる、ともあたくしは信じます。けれどもね、そういう理屈のものではない、ね、そこのところをです。やはり徹し抜くというか辛抱し抜くというか、いわゆる神様中心にならなければおられない。ね。
 こういう中にでも、神様の働きを頂かなければ、出来る事ではないのだからという、一つの思い込みがです。ね。それが成される、忙しいといったようなことは、口実にしないで、いや忙しいそのことの中に、信心を分からして頂こう、稽古さして頂こうという願いからです。なる程『氏子の用は神が足してやる』と仰るような、おかげの頂けれる、そういう徳が身に付いて来るということを、体験さして頂くのである。
 どうぞ皆さん、忙しいから信心が出来るということもない。暇でかえって信心が出来ない人もある。忙しい時暇な時例えば暇な時とか、忙しい時とかと申しましたけれども、それは要はどんなにでも、置き換えられると思うんです。頼み事のある時頼み事のない時と言うても良かろうと思う。難儀のある時難儀のない時、と言うても良かろう、もうどんなんでも良い、ね、その難儀な事、その暇な事忙しい事、そこのその中からです。その中から、信心の体験を頂かなければならん。
 学生には学生の本分がある。ね。いわゆるしん学生は一生懸命勉強するという事が本分であるように、信奉者には信奉者の本分をが、ほんとに信心の稽古をさせて頂こうと、それは今申しますように家庭の中に、ただちょいとお伺い事があるから、椛目へお参りをしたとか、お願いがあったからちょっとお参、お願いして来たとか、ね、信心の稽古にはかよおておるけれども都合の良か時だけ稽古をするとか。
 そういう程度の場合もあるけれども、そのそういうその自分の都合の良か時だけ、信心の稽古をしてです。もう信心都合の良くない時の信心、というものを稽古しとかなければ、でけんでしょうが。都合の悪い時には、信心を身に付けていけば、いわゆる神の用『氏子の用は神が足してやる』と仰るようなです。本当の神様のまあ偉大さというか、ね、神力の無限であるというか、そういうものに触れる事は、ただ都合の良か時だけの信心の稽古の程度の事では、おかげは受けられない。ね。
 実はこれ過程ですけれども、ね、小学校から中学、中学から高校というように、その勉強ではやはり、同じ学生でも、その勉強の度合というものも、程度というもの稽古の度合ということもです。ありましょうけれども、段々ほんとの事になって行けば行くほどに、忙しいけりゃ忙しいで、暇であれば暇であるほどにです。神様に接近さして頂いて、お広前やそういう中から信心の稽古に通わして頂くとこである、というような、信心こそほんとの信者、信奉者の本分ということではなかろうかと、私は思うんです。
   どうかおかげを頂いてください。